一区切り。そして空っぽ

怒涛の日々がどうにか過ぎようとしています。

 

やっと父の四十九日法要が終わりました。

納骨式も兼ねて。

 

自分ちと近いから、毎日お線香とお水をあげに通ってた。

で、少しずつ部屋を片づけてた。

悲しみと空虚感といら立ち。

これらを一瞬でも忘れることができればいいと

残りの時間はがむしゃらに働いてた。

 

おかんのお位牌と大きさも形も同じ位牌。

2つの位牌は仏壇と一緒に弟の家に運ばれていきました。

 

残された部屋には

大きな家電製品と少しばかりの家具があるのみ。

もう毎日片づけに行かなくていいんだね。

そろそろ全て処分して退去しないと。

 

順番といえばその通りなんだけど

だからって、やっぱり親の死は悲しいものです。

それがたとえ親が120歳で亡くなったとしても。

 

でもなー、生あるものは、いずれはみんな死んでいく。

自分も避けて通れないこと。

 

ずいぶん前から…子供のころから思ってること。

死んだらどこ行くの?

それで終わりなの?

 

お墓参りに行くのは、そこに遺骨があるから?

魂はお位牌にいるの?

お盆に亡くなった人が帰ってくるというのは何?

アッチの世界に行けず、成仏出来てない人って…。

それで終わりなら供養の意味は?

すべては残された人たちが形として表したいだけ?

 

たぶん永遠に謎なんだろう。

追求してもたぶん納得できないかもしれない。

想う気持ちがあればそれでいいんだ。

手を合わすのも、お墓に行くのも、法事をするのも

その人のことを想っての行動だし。

 

まだね、父の家に行くと

いるはずのない父に向って喋ってる自分がいる。

玄関開けて「おはよう」

帰るときに「また明日来るからね」

誰に言ってるの?

自分が気の済むまで喋らせてください。

そのうち無言になるだろうから。

 

うちには位牌はない代わりに

写真を飾ることにしました。

飼っていた犬ペコと一緒に幸せそうに笑ってる父と

一番ベッピンさんだった頃であろうな40歳位の母。

暇さえあれば、それをジーっと見てる私がいます。

 

今、私がいるのは両親がいたから。

一生懸命に生きてくことが親への供養。